2017年6月23日金曜日

古い記録の歪曲

古い記録は、歴史も含め、年月とともに歪曲される宿命にある。
悪意ある1パーセントの人間と、
善意の99パーセントの人間の手によるもので、
善人の方が圧倒的に多いため、歪曲情報は信憑性を疑われることなく、
むしろ年月を経るほどに信憑性を高めながら、広く公知されるようになる。

1人の人間が、年月とともに神格化されてしまうのは最も分かりやすい事例だが、
しかし決して、
熱心なキリスト教徒に「キリストはただの人間だった」と言ってはならない。
それは無礼きわまりなく、信仰者の尊厳を一方的に傷つける発言である。
これと全く同様に、
仏教家に「釈迦はただのお金持ちの息子じゃないか」と言うのも攻撃的過ぎるし、
神道家に「天照大神はただの巫女じゃないか」と言うのももちろん御法度である。
エリートの政治家だろうと、教師だろうと、法律家だろうと、医師だろうと、
人類はアダムとイブから始まったと公言する現代人は別に珍しくない、ただし日本ではあまり見かけない。
古い記録や伝統は、大なり小なり必ず歪曲される。
古き良き美しい文化だと思われている「正座」も、
もともとは奴隷がやらされていた、服従者の坐り方である。
それ以前は男性はもちろんの事、女性でも「胡坐(あぐら)」が通例だった。
しかし信仰する者にとっては、真実の情報よりも、歪曲されて伝承されている情報の方が100万倍 重要であり、それを万能の法則だと思い込む、それが人である。

しかしこう言うと、
「やはり物事は何でも原典こそが正確なのだ」と、
これまた極端に考える人達が出てくる。

現実には、新たな文化というものは、歪曲された情報の上に形成されてゆく。
その新たな文化の上に、また新しい発想(解釈)や知恵が生まれてゆき、深みをましてゆく仕組みになっている。
「原典こそ神」という極端な考え方は、そうした文化の発展の全てを、否定してしまうため、
どうにも退廃的で危険だ。
(残念ながら、お世辞にも現実的ではない)

最も現実的、合理的な道は、
原典をふまえた上で、歪曲された現代の情報(および文化)を最大限に活かす事だと、私は思う。

さてここから本題・・・と言いたかった所だが、
色々考えている内に、ちょっと問題発言になりそうな気がしてきたので、
ここまでで止めておこう・・・。